自分を愛する。という社会貢献

私には、生まれた時から「いない兄」がいました。

5歳の誕生日。
兄は病気で、突然この世を去ったそうです。
私はその2年後に生まれました。

記憶にはないけれど、
私はずっと、彼の存在を“感じながら”育ってきました。

仏壇の前で涙を拭う母の背中。
明るく元気に働く父の、その奥にある静けさ。
誰も言葉にしないけれど、確かにそこにあった「喪失」の空気。

私はそれを壊さないように、
空気を読み、感覚を研ぎ澄ませ、静かに生きてきた気がします。

そんな幼少期を経て、私は自然とこう思うようになりました。

──もっと人と関わりたい。
──人生を、味わい尽くしたい。
──自分という存在を、もっと深く知りたい。

「生きるってなんだろう?」
「人はなぜ、失ってから大事なものに気づくんだろう?」

そんな問いに向き合うようになったのは、
やはり兄の存在がきっかけだったと思います。

兄がいなかったこと。
家族が抱えていた痛み。
そして、その空気の中で息をするように生きてきた、幼い自分。

私はその痛みから目をそらしたわけではありません。
むしろ、「なぜ人は死ぬのか」「どうすれば人は癒されるのか」
そんな問いを手放せずに、哲学書や心理学の本を読み漁りました。

そして、縁あってキリスト教会にも通いました。
救いという言葉を信じたかった。
自分の中にある、理由のわからない悲しみを癒したかった。

洗礼を受け、何度も聖書を読みました。
信徒さんの優しさに救われ、牧師先生は私の話に真剣に耳を傾けてくれた。

──でも。

「人は原罪のもとに生きる」
そう教えられるたびに、どこかで引っかかっていたんです。

私は“赦される存在”としてではなく、
“もともと祝福されている存在”として、生きたかった。

痛みと向き合ってきたからこそ、
私は「自分を罰する思想」ではなく、
「自分を祝福する在り方」を選びたくなったんです。

最近、よく聞かれます。

「なんでそんなに自由に生きてるように見えるの?」

そのたびに、私はこう心の中でつぶやいています。

「私はただ、“自分を死角にしない”って決めてるだけだよ」

自分の声をごまかさない。
自分の気持ちから逃げない。

楽しいことも、苦しいことも、
ちゃんと“私”に聞いてあげる。
それを繰り返していくうちに、少しずつ、自由になってきたんだと思います。

「自分を愛する」って、
ただ甘やかすことじゃない。

むしろ──
見たくない部分にこそ、ちゃんと目を向けること。
立ち止まって、自分の心の声に耳を澄ますこと。

それって、
誰かに優しくするより、ずっと難しいことだと思う。

でも、それができるようになってから、
私の世界は、静かに、でも確かに変わり始めました。

私にとっての社会貢献って、
誰かを救うことでも、正しさを説くことでもないんです。

「自分を愛すること」

これこそが、いちばん静かで、力強い貢献だと思っています。

自分を大切にしている人のまわりには、
自然とあたたかいものが集まる。
笑顔が増えて、安心感が広がって、勇気が伝染していく。

それが、私にとっての“循環”なんです。

私のセッションや講座では、
「誰かになる」必要はありません。

むしろ、「誰でもない、自分に還る」ことを大切にしています。

泣いてもいい。
怒っても、迷っても、笑ってもいい。

そして、どんな時の自分にも、
こう言ってあげてください。

「私は私、でいいんだ」
「どんな私でも、私は私」
「どんな私も、受け入れて愛してるよ」

そうやって、自分自身のすべてを抱きしめたとき──
静かに、でも確かに、人生が変わり始めます。

それは、あなたにしかできない、たったひとつの社会貢献です。

もし、あなたの中で何かが少しでも動いたなら──
いつでも、メッセージをくださいね。

あなたの「本音」に、光を当てていきましょう。

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